歴史

4.応援部の危機

昭和43年、東大には学園紛争の嵐が吹き荒れた。授業も中止になる異常事態の中、第六回定期演奏会を開催すべきか侃侃諤諤の議論が戦わされた。結局「こんなときに不謹慎ではないか」との意見がとおり、開催10日前に中止が決定した。それまで練習、広告集め、会場確保と準備を進めてきた部員にとって空虚感は大きかった。またオーケストラがその後、「音楽と学生運動は別」という方針から演奏会を実施したことは部内、とりわけ吹奏楽団内に禍根を残す結果となった。

さらに翌44年東大は入学試験を中止した。当然毎年10名前後入っていた新入生もゼロ。40名近くを数えた部員が20名弱にまで落ち込んでしまった。その後も吹奏楽団の減少傾向は続くとともに、学園闘争の副産物として生まれた“理論"闘争の習慣が、応援活動と音楽性の追及との間の矛盾を意識化させた。応援部員である以上、応援活動に参加するのは当然だし、部としての制約も受けねばならない。しかしそれらは純粋に音の芸術を追及する際必ずしもプラスに働くわけでもなく、むしろ演奏技術の低下をもたらす可能性さえも持ちかねない。この応援部吹奏楽団としてのア・プリオリな問いかけは、本来ならクッション役、中間管理職的役割を果たすべき中間学年が入学試験中止のため不在であったという特殊な事情も重なり、さらに部員相互の溝を深める結果を導いた。そして昭和46年12月部員総会で全てがはじけとんだ。吹奏楽団が大量退部、リーダーの中からも退部するものが現れ、全部員5名という危機的な状況が発生したのだ。

復興への再出発の道のりは険しかった。退部した吹奏楽団員は東大吹奏楽部を結成し、音楽をやろうと思う新入生の多くがそちらに流れた。しかし“東大応援部存続"にかける思いは部員、OBの間で大変強く、再建への意気は高かった。OBの方のお力添えにより朝日新聞東京版に東大応援部の危機を伝える記事が掲載されることもあった。

また昭和50年から始まった東京六大学の合同演奏会は、東大応援部吹奏楽団にステージドリルという新しいカタチを与えることになった。

こうした過程を経ながら、当吹奏楽団は多岐にわたる活動の中で、多様な魅力を兼ね備えた団体へと成長し、応援部吹奏楽団としてのしっかりとしたアイデンティティを見つけ出した。