歴史

3.吹奏楽団の誕生

昭和27年春、その当時、六大学応援団で吹奏楽団がないのは東大のみだった。野球応援においても東大の試合は相手校もバンドを用いないというのが通例となっており必然的に“東大応援部にもブラスバンドを"の声は内外から聞かれていた。春リーグも終わる頃その声を受けて、応援部吹奏楽団団員募集の紙が駒場の掲示板に張り出された。最終的な応募人数はわずか3名だったが、オーケストラの協力を仰ぎともかくも昭和27年秋応援部吹奏楽団が神宮デビューを飾った。オーケストラや付属の高校生たちのエキストラを頼みながらの困難を伴った出発ではあったが、部全体でバンドを育成していこうという気運が盛り上がり、少しずつではあるが着実な成長を続けた。昭和35年は25人編成、昭和37年には35人編成、昭和38年には40人編成という当時としては慶應に次ぐビッグバンドを構成した。また、当時日本の吹奏楽界の重鎮であり、東大オーケストラ出身の三戸知章先生の熱心なご指導を仰ぐことができ、技術面でも高い水準まで力をつけていった。そうした充実につれ、吹奏楽団内から「応援活動を離れて純粋に演奏技術や音楽性を追求し、その成果を発表する機会を持ちたい」という演奏会開催を望む声が高まった。応援における“鳴り物"的存在のバンドでは今後の発展も望むべくもないというのも正論であり、部全体をあげて第一回定期演奏会開催に向け動き出すことになった。一番の現実的問題となる資金作りは、アルバイト、ダンスパーティーの企画、都市対抗野球応援などを部員全員で一丸となって取り組むことで解決し、開催に向けて部室は毎日活気にあふれていた。そして昭和38年12月14日東京文化会館にて「吹奏楽の楽しみ」と銘打った第一回定期演奏会が行われたのだ。

バンドはその後も毎年10名前後の新入部員を迎え安定した成長を見せた。そしてリーダーをあわせた応援部全体では70名以上を数える大所帯にまで発展を遂げ、まさに黄金時代を迎えていた。しかしそんな成長の陰に隠れ、応援部としてある種根源的な問いかけが先送りされたままその問題を少しずつ広げていた。そして学園紛争という時代の産物を受け、そのマグマは一気に噴出、応援部を存立の危機にまで陥れることになった。